あの日のことはまるで昨日のことのようにはっきりと思い出せる。
愛しい人が自分の腕の中で徐々に冷たくなっていく感覚。
照りつける陽射しと波の音。
潮の香りまでもが鮮明に。
ねぇ、貴女は覚えてる?最期に交わした約束を・・・



 −遠き日の束−



カタカタとキーボードを鳴らしているとコーヒーの香りが鼻を掠め、やがてそれに煙草の匂いが混じった。
コトリとデスク脇にカップが置かれ、ほぼ同時にふわりと抱きすくめられる。

「あとどのくらいで終わりそう?」
「もうちょっと。これをまとめたらお仕舞い」
「そっか」
頑張ってという言葉と共にちゅっと頭に口づけを落とされた。

この男は・・・。
よくもまあこんな気障ったらしいことを臆面もなく出来るもんだ。
そう思いながら熱をもつ自分の顔が腹立たしい。そんな私を見て彼がにんまりと笑むから余計に。

「意地の悪い顔をしてる」
「人聞き悪ィなぁ。俺はたださん照れさすのが趣味なだけだよ」
「・・・悪趣味」

視線は画面に向けたまま呟けばくつくつと喉で笑う声が聞こえてきた。
やっぱり腹立たしい。

しかも腕を私に巻き付けたまま離れる素振りもみせない。

「もしもし?」
「はいはい?」
「何してるの?」
さんを抱き締めてる?」
なんで疑問系なのよ。

「仕事しづらいんだけど?」
「そんなこと言いつつ離れようとしないさんが好きだよ」

蕩けそうな顔で今度はこめかみにキスされた。
自惚れすぎ、と言いたいけど図星なので何も言い返せない。

サンジはしょっちゅうこうして私を抱き締める。
抱き締めるというより腕のなかに閉じ込めると言ったほうが正しいかもしれない。
近づくとそれが自然だとでも言うようにするりと腕を巻いて引き寄せる。
それも場所を選ばずに。人目があろうとお構いなしにそうするから、そのたびに私は一人で焦る。
けれどどうにもそこから逃れることが出来ないんだ。彼の言うとおり拒めた試しがない。
そうして赤くなる私を楽しげに見下ろして、名残惜しそうに離れていくのがお決まりのパターンになりつつある。

例に漏れずまたサンジは、一度腕に力をこめてからそっと離れた。
顔を上げた私に微笑んで部屋をあとにする彼を見送り、私は再びディスプレイに向かう。
やっぱりだめだ、どうにも慣れない。・・・照れる。




サンジと出会ったのは数ヶ月前。
友人に美味しいイタリアンの店があるから一緒に行こうと誘われた。
しかもその店のコックがえらいイイ男で、あれは一見の価値ありだからと。
聞けば女性客には大層サービスが良く、甘い言葉を惜しみなく捧げるフェミニストらしい。
そんな軟派な男に興味はないが、美味しいご飯を奢ってくれるというので一も二もなく頷いた。

サンジを見つけたのは席についてすぐだった。
女性客にワインを注いでいる彼を指差して友人が色めきたった声を出した。
彼が噂のコックらしい。っていうか大体なんでコックがホールに出てんだか・・・あれ、なんか眉変じゃない?
と胸中でぼやいていると彼と目が合った。その瞬間。
彼は目を剥いて固まり、かと思えば恐ろしいスピードで私に詰め寄ってきた。

あの時のことは多分一生忘れないだろう。あの時はもう・・・


「・・・取って食われるのかと思ったわ」


仕事を終えてリビングで一息つき、あの日のことを呟けばサンジは何とも言えない表情をした。
しかしまたすぐに意地の悪い笑みを浮かべる。

「まぁ最終的には取って食っちゃったことに代わりな・・・ごめんなさい、口が滑りました」

ぎろりと睨めばサンジは降参とばかりに両手を上げてみせる。
けれどその顔は完全に面白がっているのだから本当に性質が悪い。
不機嫌顔を作ってみせればふわりとサンジは微笑んだ。

「それでもまた来てくれた時はクソ嬉しかったよ」
「・・・サンジが来いって言ったんじゃない」
「まぁそうなんだけどさ」

本当は行くつもりなんてなかったのだ。
出会い頭に恐ろしいほどの気迫で名前を教えて欲しいだの番号教えて欲しいだのなんだのと捲くし立てられて
なんだコイツはと完全に引いていたし。
これが彼流のナンパ手段なのだろうかと訝しがったが、友人はあんな彼を見るのは初めてだと唖然としていた。
他の客もウェイター達も皆一様に驚きの色を浮かべてこちらを見ている。
何なんだ一体、なんかもう訳わかんないから早く帰りたいよ、と思ったけれど気迫負けして注文させられ。
そしてまた帰り際に代金なんていらないから絶対にまた来てくれと手を握りしめながら懇願され
砂吐きそうな甘い言葉を並べ立てられて。
こりゃ了承するまで帰してくれなさそうだと、取り敢えず頷いて見せてもしつこいほど念を押された。
そりゃもうウェイターが焦って止めに入るほどに。
あんな胡散臭い男に誰が会いに行くものかと思っていた・・・のだけれど。

「パスタが美味しかったのよねぇ・・・」

あれはちょっと他にはない。感動すら覚えた。完璧、まさに完璧だった。
怪しいこと極まりない軽薄男にもう一回会ってやってもいいかと思えるほどに・・・

「そりゃそうさ。店のレシピなんか無視しまくって、完璧にさん好みに仕上げたんだから」
「・・・初対面の人間の好みなんてどうやって分かるのよ」
「愛の力」
「・・・そういうセリフって今まで何人の女の子に言ってきたワケ?」
「もちろんさんだけだよ」

にっこり笑うサンジを半眼で見遣る。嘘つけ。
このラブコックぶりは昨日今日で培われたものじゃあない。どう見ても年季が入っている。
恐らくこの甘いマスクで散々女の子達を誑かしてきたに違いないのだ。
こんな女好きに誰が騙されるものか・・・と、思っていたはずなのに。
料理の美味さにすっかり魅了された私はあの店におめおめと足を運んでしまい
この男にこれでもかと言い寄られるうちにあろう事かほだされてしまったのだ、ついうっかり。情けない・・・

そしてサンジと一緒にいるとそんな風に解せないことが度々起こった。
教えたことなどないはずの私の好みを把握していたこともしかり。
そもそも出会いからしてそうだ。

「初めて会った日なんであんなに詰め寄ってきたの?」と問えば
さん・・・・・一目惚れって信じる?」と真顔で胡散臭いことこの上ないセリフを返された。
(信じない、と一刀両断したらしくしく泣いていたけれど)

けれどサンジはあの時、まるで以前からの知り合いであるようなことを言っていたのだ。
使い古されたナンパの文句だと一蹴したけれど、今になって思えば妙にひっかかる。
けれど今聞いたところでこうしてはぐらかされるばかりだし。
まぁ私を想ってくれているらしいことはもう十二分に実感させてもらっているのだけれど・・・


じいっと見ていると「あんまり見つめられると照れるんだけど」と爽やかに言うので「バーカ」と舌を出しておいた。
自分でも可愛くない性格だと思うのだが、それでもサンジは楽しげにくすくすと笑う。
寛容なのか甘いのか・・・。



その時、ふいにテレビに海の映像が流れた。それを見たサンジの顔が変わる。
・・・まただ。
サンジは海を見ると郷愁を覚えるような表情をする。
それは遠くに想いを馳せているようで、そして同時に寂しげにも見えて。
この顔を見る度に私は不安に駆られる。私の知らない彼がいるように思えてならない。

隣に腰を下ろしたサンジが私を抱き寄せて、また腕の中に閉じ込めた。
ぎゅっと抱きしめると、やがてほっと安堵したように息をつく。

だから私は彼がこうするのを拒めない。
サンジは時々不安で堪らないような顔をする時がある。
そしてそういう時は決まって私を抱きしめる。
それはまるで私の存在を確認するかのように。
そうすることでようやく表情をやわらげるんだ。

彼の不安を解消できるのが自分であるということが嬉しい。
だから、出来る限りそれに応えたいと思う。
例え理由は分からなくとも、その寂しげな表情に側にいてあげたいと思った。
だから私はこうして彼と一緒にいたいと願ったんだ。
例えその全てを理解できなくても・・・


「今度の休みは海にでも行こうか」

私の肩を抱いてその胸に寄せたままサンジは呟いた。
いいの?と問えば柔らかな表情のまま首を傾げる。

「サンジは海嫌いなのかと思ってたから・・・」

少しだけ驚きを見せて。やがて彼はゆるりと微笑んだ。

「海は好きなんだ・・・本当は、すごく」

その言葉が、とても胸に響いた。
それはすごく納得のいく答えのような気がした。
サンジの蒼い瞳は深くって、空の青よりもきっと、海の青がよく似合う。

「私も好きだよ・・・」

また遠くを見ているような青の瞳が私を捉えて、穏やかに弧を描いた。
そこにはもう寂しさは見えなかった。











俺の腕の中で眠る彼女の髪をさらりと指で梳く。
大人びた雰囲気の彼女があどけない表情になるこの瞬間が好きだ。
起こさないようにそっとその体を抱きしめて、ここにいるのだということを確認する。
ふと、彼女の言葉が過ぎった。

―――サンジは海嫌いなのかと思ってたから・・・

隠しきれていると勝手に思い込んでいた感情は、思い切り顔に出ていたのかもしれない。
だとしたら彼女に心配をかけたことだろう。クソ不甲斐ねェ自分に嘆息する。
ふとした瞬間海を目にする度に、懐かしさや恋しさや、そこであった様々な記憶が頭を過ぎる。
なんで俺は今海にいねェんだろうとすら思うこともある。
海は俺の原点だ。嫌いな訳があるはずもねえ。もしそう見えていたのだとしたら。
あの日・・・彼女を失ったあの日のことが鮮明に思い出されるからだろう。
海賊という身分である以上、自分や仲間の死を全く覚悟していなかった訳じゃねェが。
だからといってそれで割り切れるはずもなく、自分の腕のなかで冷たくなっていく彼女にこれ以上ない程の絶望を覚えた。
喪失感でいっぱいになった俺を支えたのは、一緒にいてくれた仲間と、夢と、そして彼女との約束だった。

彼女が息を引き取る直前に俺たちは約束した。
必ずまた会おうと。必ず君を迎えにいくからと。


やがて俺も死期を迎え、永い眠りについた。
そうして再び目覚めた時、俺がいたのは海賊などとは無縁のこの世界だった。


そして運命のあの日、俺はついに彼女と念願の再会を果たすことになる。

あの日のことはなんっつーかもう・・・醜態を晒したとしか言いようがねェが・・・。
もっと他にやり方があっただろうと今にしてみりゃ思うが、それでもあの時はとにかく必死だった。
目が合った瞬間、一目で『彼女』だと分かった。
外見は多少変わっていたけれど、俺が見間違うはずもねェ。
ようやく成し遂げた再会をふいにして堪るものかと必死で彼女に詰め寄った。
むしろそのまま連れ去るという暴挙に出なかった自分を褒めてやりてェくらいだ。
再び来てくれると約束を(無理やり)取り付けたものの、彼女が来てくれるまでは飯も喉に通らない程だった。
だから、再び彼女が来店してくれた時の俺の喜びようは半端じゃなく。
(彼女曰く、「飼い主の帰宅にシッポ振って喜んでる犬みたいだった」そうだ・・・)
以降、押して押して押しまくり、晴れてこうして恋人同士になれたって訳で。

彼女に昔の記憶が無かったことを寂しく思わねえわけじゃねェが
それでも、こうしてまた彼女に出会えたのだから俺は構わねェと思ってる。
なんで俺にこんな・・・所謂前世の記憶と呼ばれるようなもんが残っているのかは分からねェ。
分かるのは、俺は今ようやく満たされたんだということ。
未だにふとした瞬間、彼女がまたいなくなっちまうんじゃねェかと不安に駆られることがあるが
その度に彼女の存在が、温もりが、俺の中にぽっかりと空いちまった穴を埋める。
彼女が再び生きて、俺の側にいるということ。それがどれだけ尊いことか。


眠るさんの額にかかる髪をさらりとかき上げて口づければ小さくその身を捩った。
それに頬を緩めながら華奢な体をぎゅっと抱きしめる。


あの日の約束は果たせた。
再び彼女は俺の腕の中にいるんだ。この腕の中に・・・

「おかえり、さん・・・」


――今も昔も変わらず君を愛しているよ



彼女の呼吸を聞きながら、その温もりを抱いて俺は静かに眠りへと落ちていった。
まどろみのなかで遠い波の音が聞こえた気がした。











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 『遠距離恋愛』の結末