−恋は魔物のように−
満月の夜に部屋から抜け出せば、こんな時間にも関わらずまだラウンジの明かりは灯っていた。
それにいちいち高鳴ってしまう鼓動に呆れる。
何を期待するというのだろう。そんな期待、馬鹿を見るだけだ。
そう言い聞かせながら船首の方へ歩く。僅かに温度を下げた潮風が心地良い。
好き・・・
そんなの幻覚。幻覚よ・・・。そう、思わせて。まるで誰かに言い訳するみたいに胸で反芻する。
だって仕方がない。料理人としての生き様。立ち振る舞い。しなやかな強さ。彼に惹かれない道理などないのだから。
胸の奥底に仕舞いこむように手で強く押さえ込み、丸い月を見上げる。
まるで彼みたいだ・・・。優しくて、温かくて、そして綺麗・・・。
仕舞いこんでも溢れてしまうその想いが込み上げて零れてしまいそうだ。
「美しい月夜をご一緒させていただいてもよろしいですか、レディー?」
突然掛けられた声は、狂おしいほどに望んだ人のそれ。
跳ね上がった心を隠して振り返れば端正な顔に柔らかな微笑。まるで貴族の様な物腰で伺いを立てられた。
あぁ、こんなタイミングで・・・
そんなことを思うくせに、嬉しい気持ちが隠しきれない。
ふいにジャケットを掛けられて慌てて顔を上げれば蕩けそうな笑顔に促された。
ずるい。そんなの断れないに決まってる。
まだ彼の体温が残るそれは煙草の香りがして、まるで彼に抱きしめられているようだと胸が締め付けられた。
誤魔化すように月を見上げる。
「満月があまりにも綺麗だったから、なんだか寝ちゃうのもったいなくて」
「月より貴女の方がよっぽど綺麗ですよ?」
「随分ベタな口説き文句ね」
「あれ、口説かれてくれるんですか?」
「んもう、サンジ君ってば!」
いつも通りの軽口は楽しくて、苦しい。
お願いだからそんな風に期待させるようなこと言わないで・・・
そんな願いを口にするのはラブコックの彼には酷だろうか。
真っ黒な闇は海と空との境界線を無くす。
海が月を浮かべる様は、なんだか空の真似をしているようだと思った。
「まるで恋人同士みたいね」
「え?」
「だって海はいつだって空色に染まるでしょう。好きな人の色に染まり続けてるみたいで、ちょっと素敵じゃない?
・・・なーんて、ちょっと気障だったかしら」
「じゃあさんも俺色に染まってみませんか?って言おうとした俺はもっと気障かな?」
「ふふっ、確かに気障ね」
彼との時間は私の心を弾ませ、いつもより少し饒舌にする。
なんだか自分で自分の首を絞めているみたいで苦笑した。
ふいに、彼の顔が切なげに歪んだ。
形の良い頭を流れるブロンドが煌めいて、恐ろしいまでに美しい。
なんだかこの世のものじゃないみたいで、ぞくりと肌が粟立つ。
まるで綺麗すぎる魔物のようだ・・・
「サンジ君どうしたの?なんだか辛そうな顔してる・・・」
「・・・なんだかさんが月に攫われていっちまいそうな気がして」
「どっかの御伽噺みたいに?」
「そう、御伽噺のお姫さまみたいに。月の使者に連れてかれやしないかと心配になっちまった」
「ふふふっ、私はどこにも行ったりしないわよ」
連れて行かれるとしたらサンジ君の方だわ。
月光に透ける金糸は儚くて、まるで月が二つあるみたいだ。
それに目を奪われていると、ふいに掠れた低い声が小さく耳に届いた。
―――月になんか奪われて堪るかよ・・・
突然ぞんざいになった言葉遣いにどきりと鼓動が跳ねる。
聞き返す間もなくその鍛え上げられた腕の中に閉じ込められた。
煩いくらいに高鳴る心音が鼓膜に響く。
彼の体温と抱きしめられているのだという事実におかしくなってしまいそうだ。
私は夢でも見ているんじゃないだろうか。
だってこんなの・・・嘘だわ・・・。
ようやく緩められた腕の中から見上げれば驚くほどに真摯な顔つきがそこにあった。
直視出来なくなって顔を逸らせば、どこか切羽詰ったような声に囁かれる。
「お願いだ、どうかその瞳をそらさないで・・・」
どうして・・・どうしてそんなこと言うの?
女の子なら誰にでもこんなことしてしまうの?
どうしてそんなに苦しそうな顔をするの?
お願い、やめて・・・引き返せなくなる・・・
自分に都合の良い夢を見てしまうわ。
そうしたら困るのはあなたでしょう?
苦しくて苦しくて、涙が溢れた。どうしたらいいのかすらもう分からない。
ぼやけた視界に彼の顔が苦しげに歪められたのが映る。
「ごめんさん、今夜はもう紳士でいられそうにねえや・・・」
まるで噛み付くような口づけに、呼吸も思考回路も全て奪われる。
生暖かなそれに口内を貪られて自分の中の箍が外れた。
お願い。ならばいっそ壊して。
求めるようにこの腕をまわせばそれは一層激しさを増した。
―――この想いを伝えたらあなたはどんな顔をするの?
この綺麗な顔に後悔の色が浮かんだら、きっともうこの船にはいられない。
それでも・・・もう後戻りなんてできないから・・・
途切れ途切れの呼吸の中に忍ばせるように音にした。
「好きよ」
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