コックで良かったと思ったことなどこれまで星の数ほどあるけれど。
此れ程までにこの仕事に感謝したのは、この腕を誇らしく思ったのは、作ることに喜びを感じたのは、
君に出会ってからかもしれない。
今日も君への差し入れをバスケットに詰めながら俺は料理人で良かったとつくづく思う。
だってこうして君に会いに行く口実が出来るから。
−GLORY−
見張り台へと上っていくとふいに頭上から聞こえた小さなくしゃみ。
念のために持ってきた毛布に正解だったなと内心思いながら、急いで見張り台に近付きその体にふわりと被せた。
驚いて振り向いた彼女に差し入れだよとバスケットのものを差し出せば
その顔を心から嬉しそうに綻ばせるからこれ以上ないほど幸せな気持ちにさせられる。
きっと君は知らねえんだろうな。その微笑がどれほど俺を喜ばせているか。
見張り台の上は一段と風当たりが強くて、やっぱり無理にでも見張り役交替すべきだったかと悔やむ。
レディが風邪なんて引いちまったら大変だ。
交替を申し出た俺に自分がやりたいからと断られたのだから仕方ねえが。
けれどその理由を思うと胸が詰まった。
恐らくそれは彼女の下船する日が近づいているから。
また胸の奥が軋みを立て、それを誤魔化すように新しい煙草を銜えて彼女の隣に腰を下ろした。
すると慌てたように無理して付き合わなくてもいいよと俺を気遣う彼女に頬を緩ませる。
無理してなんかない。俺がここに居たいだけ。君の傍に居たいだけだ。少しでも長く。
そんな本音の変わりに一人じゃ寂しいだろうからなんて嘯いた俺に彼女が真っすぐに答えた。
「私は一人でも平気だよ」
その一言に、思ってもみないほど胸が痛んだ。
平気だなんて言わねェで。ひとりで平気だなんて。そんな言葉、君に言わせたくねェ。もう二度と。
「いや、俺が」
寂しいんだ。胸の内を隠してそうおどけるように。
でもそれは本心。君に必要として欲しい、他の人間を。出来ることなら、俺を。
だから一緒にいさせてくれだなんて妙な願いだとは思うけど。
不可解なセリフに未だ首を傾げる彼女にふっと笑って。そちらに煙がいかぬよう慎重に煙を吐き出した。
彼女は不思議な女の子だった。今まで出会ったどんなレディとも違う。
出会ったのはとある島に上陸した時。そこで彼女はまるで人でないもののように扱われていた。
日も差さぬ場所に閉じ込められ、他者との交流も許されず。
けれどどんな仕打ちを受けようとその瞳は不思議なほど透き通っていた。
憎しみも恨み辛みも見せる事無く、ただただ歪んだ世界をありのままに受けとめて、それでも無垢な心を汚す事無く。
そんな彼女をそこから連れ出してこの船に迎えることを反対するクルーがいるはずもなく。
はじめは戸惑いを見せていた彼女もやがてここに居場所を見いだしていった。
少しずつ見せてくれた明るい表情に、心癒されたのはむしろこちらの方。
俺の作った料理を口にして美味しいと涙した彼女を前にした時の感情は筆舌に尽くしがたいものがあった。
料理を出す度にまるで神聖な儀式のようにそれを受け取り、
大切に噛み締める彼女にどれだけ暖かな感情をもらったことだろうか。
当たり前の食事にすら大業な程の感謝をみせるその背景を思えば
どれだけクソ酷ェ迫害があったのかと、そうしてきたヤツらを蹴り殺してやりてェ程の怒りを覚えるが。
けれど今は、少しでも多くの喜びを彼女に感じて欲しいと、
少しでもその柔らかな心に付けられた傷を癒せればと、ただただ願う。
ふいに視線を感じて振り向くと、そのくるりとした双眸がじいっとこちらを見つめていた。
・・・クソ可愛い。なんかこう、きゅんとするっつーか。
まぁレディに対してというより小動物を愛玩する感覚に近い気もするけどな。
そんな考えに口角を上げながら首を傾げれば、愛らしい唇がそっと可愛い声を紡いだ。
「タバコ・・・」
煙草?とオウム返しで聞き返すと、苦手だったのとぽつり言われて冷や汗が出た。
今までずっと我慢させていたなんてと動揺しながら慌てて火を消そうとすると、今は平気だからとそれを止められた。
その言葉に一応安堵はしたものの言葉の意図が読めずに見返す。彼女は少し考えながらまたゆっくりと唇を動かした。
「匂いとか煙とかがね、あんまり好きじゃなかったんだけど、今は好き」
「好き?」
「うん。サンジ君がタバコ吸ってる姿も好きだし、タバコの匂いも好き。
この匂いがするとサンジ君が近くにいるんだなって分かるし、どこかでふっと香った時とかサンジ君を思い出すから」
思っても見ない言葉に茫然と彼女を見つめる。
・・・『好き』?
一生懸命内省して慎重に言葉を選ぶように言葉を紡ぐ。
自分の気持ちを伝えようと、誤解や間違いがないようにと、そんな風に真摯に話をするのは彼女の癖。
そんなひたむきでいじらしい姿を微笑ましく見守るのが常だが、今回ばかりはそんな余裕もなかった。
「もしかしたら今でも他の人が吸っているやつは苦手と思うかもしれない。でも、この香りは好き。サンジ君の香りだから」
・・・他の人・・・苦手・・・好き・・・サンジ君・・・だから・・・。
バカみたいに言われた言葉を反芻しているうちに都合の良すぎる編集が脳内で勝手に行われる。
仕舞いには、『好き』『サンジ君』、この二語だけがひたすらリピートされ始める。
分かってる、その単語はそれにくっついたもんじゃねェってことくらい、そりゃもう十二分に。
けど、けどさ・・・
・・・あー、ダメだ、顔がにやける。
顔を逸らして必死で唇を固く結ぶ。
すると。
「サンジ君、もしかして照れてるの?」
ストレート過ぎる指摘にもう居た堪れなくなって頭を抱えて唸った。
こりゃなんの羞恥プレイだ?
「そりゃ・・・正面きって好きとか言われたら、照れる」
「言っちゃダメだった?」
「いや、ダメじゃねェんだけど・・・むしろすんげェ嬉しいんだけどね」
不思議そうな顔できょとりと見返されてますます困る。
この感情を正確に彼女に伝えるのは難しい。
平然と今の胸のうちを説明できるほど俺は大人でもなければ枯れてもいねェ。
心の機微というものをまだ理解しがたいらしい彼女には色々と教えなければならないことぐらい百も承知だ。
そうしなければきっとまた彼女は同じような場面に出くわした時に困惑する破目になるとは分かっている、け、ど・・・?
そこまで思い至ってはっと顔を上げた。
「でも他のヤローにはそんな風にてらいなく好きとか言っちゃダメだよ?」
「どうして?」
「そいつが勘違いしちまうからさ」
「かんちがい・・・」
ますます混乱した様子の彼女の表情で我に返り、何言ってんだ俺はと自分を詰った。
まだ“好き”という感情に種類があることすらも認識していない彼女に言ったところで伝わるはずも無いのに。
それでもそんな道理より何より真っ先に独占欲が口をついた。
情けないと思いながらも言った言葉を訂正したくない自分に一層呆れる。
間違ったことを教えてはいけないと一応言い訳じみたことを呟いてみるが、結局もごもごと濁っちまうだけ。
「まぁ、そんなの俺のエゴなんだけどね」
「エゴ?」
「我侭ってこと。ちゃんの“好き”を独り占めしちまいたい俺のワガママ」
「サンジ君のわがまま・・・」
だから君が好きだと思った奴が現れたのならそれを口にしても良いんだと言おうとしたが、
尚も未練たらしい感情がそれを躊躇させた。
そんな悶々とする俺の思考を打ち切ったのは彼女の言葉だった。
「サンジ君にわがまま言われるの、私嬉しい」
ぽかん、とする俺に彼女は愛らしくはにかむ。
じわりじわりとその言葉が俺に沁みこみ、次第にだらしなく口元が緩みそうになる。
やがてとうとう耐え切れなくなって破顔した。
「ちゃんて俺のこと喜ばす天才かもしんねェ」
そういうと彼女がいっそう無防備に笑むから。
もう無理だと降参した。
どんなに誤魔化したってもう否定しようがねえ。
俺は彼女に好意を向けられるのが嬉しいんだ、こんなにも。
これはもう純然たる事実でしかなかった。
真っ黒な波間を静かに見据える彼女の隣で俺は黙って煙草をふかす。
沈黙が彼女と一緒だと不思議なほど心地良い。
最初の頃はもちろん、他のレディー達に向けるようにありったけと賛美と称賛を彼女にも捧げていた。
けれど賛辞を贈られることに慣れていない彼女はまるで未知の異国文化だとでもいうような戸惑いっぷりを見せた。
その初な姿もまた可愛かったけれど、でも言葉を抑えるとほっとしたように安心した姿を見せてくれるから。
それが嬉しくて彼女に向ける言葉には人一倍気を付けるようになった。
彼女が戸惑わないようにゆっくりと、驚かさないようにあまり沢山じゃなく。
それでもその愛らしい笑顔を見せてくれるように出来るかぎり優しい言葉を。
まだ語彙の少ない彼女の微笑みは、どんな言葉よりも雄弁だ。
言葉を尽くすことしかできない俺よりも、そのひとつの笑顔が何より冗舌に語る。
多くの言葉を駆使して伝えようと足掻く俺とは対照的に微笑み一つで全てを物語った。
そんな彼女に憧れるけど、やっぱり俺には言葉をふるうしかない。
クソ剣士や暢気な船長のように言葉なくして君に居心地良い空間を与えられない俺には
どうしても言葉の力を借りる他ないから。
君が喜んでくれると嬉しくて、君が笑ってくれると幸せで。
それは他のレディ達に感じる浮ついた気持ちとは違う。
安らぎとか幸福とか。
心の奥底から暖かな気持ちにさせられる。
それが君の傍。
ちらりと隣を窺えば、やはりその視線は漂う波に注がれていた。
彼女の横顔を見ながら先ほどの言葉を反芻する。
『サンジ君にわがまま言われるの、私嬉しい』
それは俺が持っているのと同じ感情なんだろうか。
俺に対して何かを望んで欲しい。甘えて欲しいと。
そう出来るほどに心許せる存在として君の側にいたいと・・・
(わがまま、か・・・)
自分の思いつきに逡巡しつつも、彼女の言葉に後押しされて口を開く。
「・・・ちゃん。お言葉に甘えて我侭を言っちまってもいいかい?」
振り向いた彼女に内心緊張しながら。
「手を、繋いでもいいかな?」
・・・なんつー捻りのないセリフ。もっとスマートな物言いがあるだろうが。
その上言いながら差出した手が照れるわ照れるわ・・・どこの純情少年だよ俺ァ。
まん丸になった黒目がちな瞳に見返されて。
言ってしまったという後悔が少し、不安が少し、期待が少し、恥ずかしさが大半。
しかし柔らかくはにかんで頷いた彼女にそれは嬉しさへと変わった。
そっと重ねられた手を握り締め、その瞬間驚いた。小せェ!
思ったことをそのまま口にすると、同時に彼女の言葉が重なった、「大っきい」と。
それに思わず顔を上げれば、同じようにした彼女と目が合った。
一瞬の間のあと、同時に噴出す。
なんだかくすぐったくて、照れくさくて、そして幸せだ。
彼女が隣にいて、俺の手の中には彼女の手があって、同じものを共有している。時間も、感情も、温度も。
とてもシンプルに思う。幸せだ、と。
けれどほの暗い暁が明けるのに反して心に影が差していく。
ちゃんにはやるべきことがあって、別れまでのタイムリミットは迫っている。
ビビちゃんがこの船を下りた時ももちろん寂しさを覚えたけれど、それが彼女の生きる道なのだと受け入れた。
けれどちゃんがこの船を下りる時、同じように受け入れられるかどうか。
日に日に自信が無くなっていく自分がいる。
その笑顔を見ていられるだけで幸せだったのに、徐々にそれを独り占めしてしまいたいと思う欲が頭をもたげる。
その原因が何かなんて、きっと答えは恐ろしく単純なのに。
それに気付くことを恐れる自分が歯止めをかける。
このまま彼女を見守る仲間で居続けるべきだと思う自分と、身勝手な想いを伝えたいと願う自分。
どこまで堪え続けていられるだろうか。
船は刻々と別れの場所へと近づいているのに。
戸惑いの中に芽生えた感情が少しずつ育っていくのを止められないまま。
―――ねぇちゃん、本当に我侭を言って良いというのなら、どこへも行かずに、どうかこのまま・・・
口にする代わりに握り締めた手に力を込める。
朝焼けが眩しさを増す事に心は囚われて。
いっそ時間が止まればいいと願った。
それを拒むように無常な光を放つ太陽は海の濃い群青を柔らかに染め上げていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・