Wash your hands−


勢いよく放出されるシャワーの水圧に打たれながらバスタブの縁に項垂れる。
熱いくらいのお湯が徐々にバスタブを満たしていくけれど、体の芯はいつまでたっても冷え切っていた。
時折鼻を掠める女性らしい華やかな香りはこの部屋の持ち主のもの。
官能的とも言えるような香りが満ちるこの空間は生活感が欠片も感じられず、そのせいか全てが非現実的に思えた。
そんな自分に自嘲を漏らす。こんなのただの現実逃避だ。

今日、任務に失敗した。こともあろうに私はターゲットを前に怖気づいたのだ。
命乞いをする相手を目の前に考えてしまった。この人は本当に殺されなくてはならない人間なのかと。
そんな私的感情を挟むなど言語道断。私達は命じられるままに任務を遂行すればいいだけの存在なのに。
けれどもその隙を突いて相手は私に向かってきた。
カリファが助けに入ってくれなければ間違いなく殺られていただろう。
カリファに止めを刺されたターゲットの返り血を浴びながら私は情けなくその場に崩れ落ちた。

無意識下に積もらせていた仕事に対する疑問や不信感はいつしか私の心を凌駕していた。
恐らく私にはもう人を殺めることなど出来まい。
政府にしても職務を全う出来ない諜報員になど用はないだろう。
お払い箱にされるか・・・いや、それで済んだら良心的なほうだ。
下っ端とはいえ政府にとって不都合な情報を洩らす可能性のある人間には違いないのだ。
今回失敗したことに託けて、下手すれば消されるかもしれない。

どちらにしても私の行く先は絶望的だった。
体良く放り出されたところで行く当てもないのだから―――


「ここまで気配に気づけんとは、やはりサイファーポール失格じゃのう」


悲観的な思考に落ちていた私は、声を掛けられてようやく人が入ってきていたことに気づいた。
腕に伏せていた顔を緩慢に上げれば、カーテン仕切りの脇から黒服に身を包んだカクが姿を見せる。
無表情のカクは目が合っても顔色一つ変えない。
こちらは裸だというのに、と心の隅で思ったが投げやりな気持ちになっている私は体を隠すことすらしなかった。

「・・・自殺でもしとるのかと思ったわい」

働かない頭でカクの言葉を受け止める。
確かにシャワーに打たれてバスタブに項垂れる女の手からリストカットした血が流れているなんて安いドラマでありそうな場面だ。
いっそそうした方が楽かもしれないという思考が頭を過ぎり失笑を零す。

「さすがに人様の部屋を血で汚すわけにもいかないでしょう」

中央に豪華なバスタブを設えたこの部屋はカリファのもの。
任務から戻ると黙ってここを貸してくれた彼女の計らいは有難かった。
いつ誰が入ってくるかもしれない共同浴場に行きたい気分ではなかったから。
けれどこうしてカクが入ってきたのだから、ここも結局同じことだったか。
力なくせせら笑いを浮かべた私の横で、きゅっと音がしてシャワーが止んだ。
気づけばバスタブのお湯は今にも溢れかえりそうになっており、床を水浸しにせずに済んで良かったなとどうでも良い事を思う。

「随分堂々とした覗きね」
「心配せんでもそんな貧弱な体に欲情する程不自由しとらんわ」

バスタブの縁にだらりと伏したまま見上げれば、カクは憮然と言い放った。
じゃあ何をしに来たんだと問う前に手首が強い力で引き上げられる。
力の入らない体は凭れ掛かるような格好になり、カクはそれを無言のまま抱きとめた。

「服が濡れるわよ」
「クリーニング代はお前さんに請求するから構わん」

理不尽な物言いに反発する気も起こらず立ちすくむ私を柔らかなバスタオルが包む。
カリファが部屋の部屋に置いてあったのであろうそれはやはり華のような香りがした。むせ返りそうなほどに。

「・・・慰めにきたの?」
「寝言は寝てから言うもんじゃ。お前さんを慰めてワシに何の得がある」

されるがままになっている私をバスタオルで拭いていたカクが顔を上げて、一瞬その動きを止めた。
やがてばさりと頭にタオルが被される。

「不細工の泣き顔は最悪じゃな。ますます不細工じゃ」

そう言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。
目の下まで覆うバスタオルが頬を伝う水分までも吸い取っていく。

「だからお前さんにこの仕事は無理じゃと言ったんじゃ。お前さんには向いとらん」

ワシワシと髪を拭きながら話すカクの声がタオル越しにくぐもって聞こえる。

「迷いのある人間が任務に赴いた所で足手まといになるだけじゃ」

容赦ない言葉は胸を抉り、堪らず唇を噛んだ。


「お前さんはサイファーポール失格じゃ」


温度のない声ではっきりと告げられ、張り詰めていたものが決壊する。
泣き叫んで暴れだしてしまいたい衝動に駆られ、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
分かってる、そんなの自分が一番分かってる!
本当に何しにきたのよ?私を笑いにきたの?任務に失敗した愚鈍な人間を貶めにきたの?
ぐちゃぐちゃと思考をかき乱す私に薄情なほど冷静な声が響いた。



「じゃから辞めてしまえ」



最悪だ、性格の悪いこの男も、責任転嫁して罵りたい自分自身も。
最悪だ、逃げ場のないこの場所も、逃げる力のない己の無力さも。

悔しくて苦しくて俯いた私の頭にコツリ、とタオル越しに額が合わされ。
被されたタオルの隙間から見える薄い唇が静かに動く様がスローモーションのように見えた。



「・・・代わりの居場所ならワシがいくらでも作ってやるわ」



小さく囁くように掠れた声は私の心に落ちるなりと大きな波紋を広げ、熱くなった体を震わせた。
ぼろぼろ零れだした涙を押し付けるように縋り付いたカクの懐は嫌気が差す程温かくて。

最悪だ。



・・・最後の最後に優しくするなんて、本当に最悪。










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