− 4 −
燦々と眩しい日差しの降り注ぐ甲板で、ブルックは目に飛び込んできた光景にぎょっとした。
「!勝手にマストに登ってはダメですよ!あなたの体重じゃ軽過ぎてすぐに吹き飛ばされてしまいます!」
覚束ない足取りでマストにふらふらと登っていたはブルックの声に気づいてそちらに手を振った。
片手を離して益々危なっかしい様子になったにブルックはひぃ〜っと顔を青くする。
「手なんか振らなくていいですからしっかり掴まって!そして早く降りてらっしゃい!」
「大丈夫だよブルックー、心配しないでーっ」
暢気な声を上げるを冷や冷やしながら見守っていると、瞬間、突風が吹いて大きく船が揺れた。
ブルックが風圧に反射的に閉じた目を開けると、先ほどまで居た場所から忽然との姿が消えていた。
「えっ!?・・・!?」
「ブルックさん!あれ流れてるのじゃないッスか!?」
船員の声に仰天して振り返ると、船の後方に水死体のようにぷかぷか浮きながらスー・・・と流れていく見慣れた姿があった。
「ギャアアアア!言った側からァァァ!!」
「・・・んで?なーんでお前まで一緒になって溺れてんだよ」
数分後、甲板には仁王立ちの船長の前で仲良くお揃いのタンコブを作って正座するとブルックの姿があった。
「かたじけない・・・つい、勢いで・・・」
「能力者なんだから溺れるって分かってんだろーが!ちったァ後先考えろ!まったく、手間増やしやがって。
、お前もだぞ!物珍しくて色々見て回りてェのは分かるがな、ああいう時はせめて一声掛けてから・・・・・って、?」
怒られて俯いていたが口元を歪めているのに気づき、ヨーキが訝しがって声を掛ける。
一瞬泣いているのかと思ったが、その顔は笑ってはいけない場面で口元が笑んでしまうのを必死で堪えている人間の顔だった。
「お前何笑ってんだ?叱られてんのに喜んでんのか?」
「だって・・・怒鳴られることはあっても、叱ってもらえるのってあんまりなかったから・・・」
嬉しくて堪らないというように照れくさそうにはにかむ姿に周囲の男達は不意打ちにきゅんと胸を高鳴らせた。
叱るという行為は相手への愛情があってこそのもの。ただ感情のままに怒気をぶつける行為とは似て非なるものだ。
相手のことを想い、心配するからこそ苦言を呈する。
これまでそういった愛情に恵まれなかった分、それを実感できることにはいちいち嬉しそうに反応してみせる。
そんな態度がいじらしくて、ヨーキ達は庇護欲にそそられるばかりだった。
「あ〜、ったく!お前はほんっと可愛いな〜。しょうがねェから罰のデッキ掃除は免除!ブルック、お前一人でやれ」
「エェェェェ!?横暴ですよ船長ッ!」
「お前は可愛くないからダメ。いいからさっさと掃除しろ!しっかりやんねェとマストに吊るすからなッ。
は風邪引かねェように風呂入ってこい。ちゃーんと髪拭くんだぞ?」
「扱いに天地ほどの差が感じられるんですけど!?」
すったもんだしながら説教を終え、結局が私もやると言い出したおかげで
に甘いその他の船員達も含めて最終的にほぼ全員でデッキ掃除をすることになった。
デッキブラシをかけながらが思い出したように口を開く。
「さっきヨーキ船長が言ってた“能力者”って何?」
「なんだ、は知らねェのか。この世にはな、“悪魔の実”っつーもんがあってそれを食うと特殊な能力が身に付くんだよ。
そういうヤツのことを能力者って呼ぶんだ。ただその代償に一生カナヅチになっちまうがな。
ブルックは死んだ後一度だけ黄泉の国から舞い戻って復活できるっつーヨミヨミの実のを食った能力者なんだ」
「じゃあブルックは死んでもまた生き返るってこと?」
「まぁ本当かどうかは死んでみないと分かりませんし、今はただのカナヅチ人間ですけどね。ヨホホホ!」
ヨーキ達の説明を聞いては感心したように声を上げた。
その反応にヨーキがも生き返ってみてェのか?なんて面白そうにからかう。
するとは少し考えた後、こくりと頷いた。
「だって沢山生きたらその分いっぱい色んな曲に出会えるでしょう?」
「は本当に音楽のことばっかりだなァ〜」
無邪気に話すを見てヨーキ達は微笑ましげに笑った。
無駄話ばかりのデッキ掃除は人数が多かったにも関わらずいつも以上に時間がかかり、終わる頃には日が暮れ始めていた。
夕食の時間、食堂に入ったブルックはの姿が見えないことに気づききょろきょろと視線を巡らせた。
すでに席についていたヨーキもそれに気づいて周囲に問いかける。
すると一人の年若いクルーが思い当たる節があると声を上げた。
「また書庫にでも行ってるんじゃないですか?最近よく入り浸ってるみたいだから」
その言葉を聞いたブルックが、ならば自分が呼びに行ってこようと踵を返し食堂を後にした。
書庫の扉を開けると古い本特有の甘い香りが立ち込めている。
部屋の中程まで足を進めてみれば、広い本棚の前でぺたりと床に腰を下ろして一心不乱に本に熱中するの姿があった。
その周りにはを囲むように本の塚が築かれており、小柄な体が蹲ると簡単に隠れてしまいそうなほどだった。
「、夕食の時間ですよ?」
声を掛けられてようやくブルックが入ってきていたことに気づいたは驚いたように顔を上げた。
そしてもうそんな時間なのかと焦ったように本を片付けだす。
「ごめんなさい、夢中になってたら時間忘れちゃって・・・」
「ヨホホホ、構いませんよ。一体何をそんなに一生懸命読んでいたのですか?」
ブルックの問いかけには嬉しそうに一冊を手にとって見せた。
それは著名な作曲家の生い立ちや楽曲の制作背景などが書かれた本。
「その曲を作った人のこととか、どんな風にその曲が作られたのかとか、そういうのが分かると曲をもっと好きになれるでしょう?
その人はどんな気持ちで作ったのかなぁとか考えるとすごく楽しいの」
活き活きと語るにブルックは自然と顔を綻ばせる。
「は本当に音楽が好きなのですね」
そう問えばは心からの笑みで頷いた。
そんなを見て、ブルックはずっと思っていた質問を口にする。
「はもっと・・・沢山の人の前で歌ってみたい、とは思わないのですか?」
あれだけの歌唱力があれば、立派なホールで大勢の客を前に歌うことだって夢ではない。
実際、以前は公演を行ったこともあると言っていた。
歌い手ならばそんな憧れを抱くことも当然あるだろう。
あれ程の実力を一海賊団が独占し、閉じ込めてしまうのは勿体無いのではないだろうか。
が一味に入って以来、ブルックは心の片隅にそんな懸念を抱き続けていた。
ブルックの問いかけにはきょとりとした表情を浮かべる。
しばしの間考えを巡らして、やがてはブルックに向き直った。
「大きなホールで歌うのも憧れない訳じゃないよ。沢山の人に歌を聞いてもらえるのも魅力的だと思う。
でもそれにあまり執着はないの。たった一人でも聴いてくれる人がいるなら私は歌い続けたいし
私の歌が少しでもその人の魂に届いたら嬉しい。それで、いつかは・・・」
言葉を区切り、開いたままの本のページにそっと小さな手が添えられる。
「いつかは・・・ただ一人のために歌いたい。そんな風に思える人に出会えたら素敵だなって・・・思うの」
それはとある音楽家が愛する者のために作曲したという曲について書かれてあるページだった。
その文字を愛おしげになぞりながらは目を細める。
その姿を見守りながらブルックは自身の胸に甘苦しい感情が沸き起こるのを感じた。
「・・・さあ、片付けは後回しにして夕食を食べに行きましょう。早くしないとみんな食べられてしまいますからね」
胸の奥の感情に気づかないふりをして、ブルックは努めて明るい声を出しを促した。
にっこり笑ったがブルックの後に続いて書庫を出る。
廊下には食欲をそそる夕飯の香りが漂い、急激に空腹を覚えた二人は足を速めて食堂へと向かっていった。
夕餉の後、甲板にはもう恒例のように歌うとそれを取り囲むクルー達の姿があった。
爽やかな潮風に柔らかな髪を靡かせて、はその小さな体を一つの楽器のようにして壮大な音色を反響させていた。
堂々たるその姿は普段のあどけない相貌からは想像がつかないほどの異彩を放つ。
ノスタルジックな音色はもどかしさと切なさを入り混じらせながら聴く者の心を優しく溶かしていった。
歌声は日に日に豊かになり色を増していく。
それは船員達と触れ合うことで感情の機微を高め、
活字を吸収することで心の栄養を蓄えていったの成長の証だった。
艶ときらめきを増したその音色に、輪から少し離れた船縁に腰を下ろし
酒を片手に聞き入っていたヨーキがぼそりと零した。
「なんかやけに声に色気が出てきた気がするんだが・・・まさか、恋でもしてるんじゃねェだろうなァ?」
眉を顰めるヨーキにブルックがからかうように口端を上げる。
「ヨホホホ、どうやらしているみたいですよ?」
「何ィ!?相手は誰だ!?俺ァ許さねェぞ!」
「何父親みたいなこと言ってんですか船長」
「うるせェ!そんで誰だ、ウチのを誑かした奴ァ!?」
息巻くヨーキの隣でブルックは船縁に寄りかかりながらを見つめて目を細める。
「今は・・・恋に恋をしているようですよ?」
そのセリフにヨーキは半眼になり、びっくりさせんなとブルックの脚を空になった酒瓶で小突く。
緩やかな風にスカートの裾を舞わせながら、憂いを含んだ温かな音色を奏でるをブルックは静かに見守った。
先ほど目を逸らした感情が再び胸の奥に湧き起こる。
それはある旋律を伴って―――
と会話を交わし、触れ合い、こうしてのことを想う度に
胸の中にはブルック自身にしか聞こえない旋律が溢れ出るのだ。
それはの歌声と交じり合い、ブルックを小さな戸惑いと情動とでせめぎ立てた。
『いつかは・・・ただ一人のために歌いたい。そんな風に思える人に出会えたら素敵だなって・・・思うの』
いつか彼女が歌を捧げるただ一人の人物。
こんな素晴らしい歌を独占出来るなんてとんだ果報者だ。
なんて羨ましい人間だろうと心の底から思う。
けれどそれは果たして音楽を愛する者としての嫉妬、というだけの感情なのだろうか。
感情というやつは自分自身のもののはずなのに時にひどく不可解だ。
そんな胸に巣食う居心地の悪さを追いやって、今はただ皆の為に歌われる美しき音色を堪能することにした。
ブルックは夕闇に暮れる甲板で船縁に体を預けながら、サングラスの奥の瞼を己の感情と一緒にそっと閉じた。
---------------------------------------------------------------------
Next>>>