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満ちた月の美しい夜。船員達がとうに寝静まった頃、ブルックは一人甲板へ出た。
何故だか目が冴えてしまい、風にでも当たろうと出てきたのだが
思いのほか空気が冷えており余計意識が冴え渡ってしまった。
失敗だっただろうかと思いつつ腕を体に巻きつけ擦っていると、耳に小さな音が届いた。
それは本当に小さく、意識を集中しないと聞き逃してしまうほどの。
けれど間違いなく、それは歌声だった。
しかも船員達のものではないソプラノの声。
驚いて音源へと近づこうとブルックは足を進めた。
しかしはっきりとその歌声を捉えられる距離まで来ると、歩みは自然と止まってしまった。
歩みだけではなく、呼吸も、瞬きすらも。
まるで洞窟の中で囁くように歌うその声は、真冬の月のように透き通っていた。
神聖で静謐で透明感に溢れた旋律は俗っぽさの欠片も無く、ブルックは呆然と魅了される。
憂いを含んだ音色は哀愁の中に優しさを内包し、聴く者を魂ごと揺さぶった。
持てる意識の全てがそこへ向かう。
激情の波が己を飲み込む。
けれど唐突にそれは止んだ。
途端に世界が色褪せたような気分に陥る。
いきなりぽい、と現実に投げ捨てられたような空虚と混乱が胸に沸き起こった。
見ればその歌い主は小さな体をいっそう小さくして蹲っていた。
唐突に激情を奪われた虚無感が胸に渦巻きながら、
同時にたった今体感した信じられないような出来事に胸は激しく高鳴り続けた。
「何故・・・止めてしまわれたのですか?」
ブルックの声に弾かれた様には顔を上げ、彼を見止めた瞬間に月明かりでも分かるほど顔面蒼白になった。
恐怖に慄くように震え上がる小さな体にブルックは訳も分からず焦り。
慌てて宥めようと伸ばした手はビクッと身を竦ませた彼女の体によって拒まれた。
「・・・っごめんなさい、ごめんなさい!もう歌いませんから・・・」
「え・・・?ど、どうして?あれほどの歌声をお持ちなのに・・・」
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・っ」
「何故・・・」
「歌っちゃ・・・だめなんです・・・」
酷く怯えながら何度も謝罪を繰り返し、踵を返して彼女は駆けて行った。
訳の分からない展開に茫然と立ち尽くしながらも
ブルックの脳裏には先ほどの旋律が止め処無く繰り返され、心はいつまでもあの歌声を渇望し続けていた。
翌日、昼食を終えた頃船内は俄かに騒がしくなった。
発端は幹部の一人が見つけた新聞記事。それを読んだヨーキは驚き、船員に至急を呼ぶよう言い渡した。
は通された部屋の緊迫した空気に戸惑いを見せ、そしてテーブルの上に広げられた新聞を見つけて青褪めた。
日に焼けたそれには数ヶ月前の日付が入っており、中ほどに取り上げられた記事には歌う少女の写真が掲載されていた。
それは見紛う事無き今ここに立ち尽くしているの写真。
その上に強調するように大きく掲げられた見出しは『セイレーン』
自分の記事を前に少女は今にも卒倒しそうな顔で華奢な体を震わせた。
何事かとの後に続いて入ってきたブルックはその新聞を手にとり記事を読んだ。
内容は次のようなものだった。
≪セイレーン≫
奇跡と謳われるほどの素晴らしい歌唱力をもつ少女がいた。
その歌声の虜になった富豪達は己の道楽のため、はたまた儲けのために少女を手に入れようとこぞって大枚を叩いた。
身寄りの無い少女はそんな富裕層の人間達に商品として売買され続け、各地を点々としていた。
けれどある日、少女を乗せた客船が座礁する事故が起こった。
少女は奇跡的に助かったが、その後公演を行った小さな島でも嵐が起こり、周囲で遭難、難破する船が相次いだ。
単に不幸な偶然の重なりであったのであろうが、少女の歌声を聞いた者達が口々に言い出した。
あれは少女の仕業だと。
非現実的な戯言と一蹴されそうな話だが、少女の人並みはずれた歌唱力が皮肉にも仇となった。
そんな魔術的な力があっても不思議ではないと思ってしまえるほどの魅力が少女の歌声にはあったのだ。
そうしてついたあだ名は『セイレーン』
美しい歌声で航行中の人々を惑わし、遭難、難破させたという神話に登場する伝説上の生物になぞらえた名だ。
いつしか歌姫は化け物のように人々から敬遠されていった。
以来少女は歌うことを止めたが、それでも一度その歌の虜になり尚も少女の歌声を求める資産家達は後を絶たなかった。
歌うことを止めたセイレーンは今も尚高値で取引されているという。
「・・・この記事に書かれてあることは事実か?」
ヨーキの言葉には服の裾をきゅっと握り、そしてこくりと頷いた。
ヨーキの顔は渋くなり、周囲の船員達はざわめいている。
海を渡る海賊船にそんな不吉な言われを持つ人物を乗せていたなんてと不穏な空気が部屋に渦巻く。
その時、とある新人のクルーが怯えながら声を上げた。
「俺・・・昨日の夜、見張り台で聞いちまった・・・が歌ってんの・・・!」
その台詞にどよめきが大きくなる。
「・・・お前、歌った・・・のか?」
驚きの表情を見せるヨーキには俯きカタカタと震えながら声を絞り出した。
「ごめ・・・なさい・・・っ」
肯定の謝罪によってヨーキは頭を抱え、クルー達はいよいよ混乱しだした。
セイレーンが歌った。この船で。もし噂が本当なら沈んでしまうのではないか。もう取り返しがつかないのではないか。
ざわざわと取り乱し始めたクルー達にブルックが顔を顰める。
寄って集って問いただされたは自責の念と恐怖とで今にも泣き出しそうだ。
船員達を諌めようとブルックが口を開きかけた、その時。
「ずっりィ〜〜〜!!」
机に突っ伏していたヨーキが場違いな程気の抜けた声で叫んだ。
ぎょっとして誰もが彼に視線を向ける。
「俺が散々歌えっつっても歌わなかったクセによォ、隠れてこっそり歌ってたなんてずりィぞ!
しかもそれ聴くの他のヤツに先越されたなんて・・・っあー!畜生面白くねェ!」
全員がぽかんとする中、なんとなく便乗してブルックがそれに声を掛ける。
「あ、ちなみに私も聴きました」
「何ィ!?ブルックもか!なんだよお前ェら揃いも揃って!ずりィぞ、俺にも聴かせろ!」
急に深刻さの薄れた空気の中、困惑しながら船員の一人がヨーキに問う。
「え?あの・・・船長?が歌ってたことを咎めないんですか?」
「あァ?何でンなことしなくちゃなんねーんだよ。うちじゃ誰も彼も歌ってんじゃねェか」
「だって記事にが歌ったら船が沈むって・・・それで怒ってたんじゃないんスか?」
「バカ野郎!こんな記事どーでもいーんだよ。こんなのどっかの小心者の馬鹿が勝手に騒いでただけだろ。
ったく、てめェらこんな戯言に踊らされてんじゃねェよ見っともねェ」
あっけらかんとしたヨーキの物言いには呆けたまま尋ねた。
「歌ったこと・・・怒らないの・・・?」
信じられないというように自分を見つめるにヨーキがぬははと豪快に笑う。
「、うちの船が歌で難破しちまうような軟弱な船に見えるか?泣く子も笑うルンバー海賊団だぞ!?
例えセイレーンだろうがなんだろうが音楽が好きなヤツなら迎えてやる、それがルンバー海賊団だ!
たった数日でもな、お前さんが歌を好きなのは見てれば分かる。
なのに歌うことを自分に禁じたりするなよ勿体ねェ。こんな心無い奴らの言葉にお前が傷つく必要なんかねェんだ。
歌っちゃいけねェなんてそんなおかしな話があるかよ。
音楽に国境も人種も性別も年齢も関係ねェ、誰にだって音楽を楽しむ権利があるんだ。
だから俺は音楽が好きだ。なあ、お前もそうなんじゃねェのか?」
ヨーキの言葉には大きく目を見開いた。
船員達が口を噤んだ部屋は静寂に波の音だけが響く。
やがてそこにしゃくりあげる声が混ざった。
は泣いていた。
事件以来、は罵詈雑言を浴びせられ続けてきた。
自分の歌にそんな力があるなんて到底思えなかったが、そんな言葉を聞かせられるたびに不安と恐怖でいっぱいになった。
マスコミは面白がって憶測を囃し立て、事故の遺族からはお前が殺したんだと泣きながら罵られた。
謂れ無い言い掛かりだと思っていたのに、日に日に罪悪感に苛まれて精神は病んでいった。
自分は歌ってはいけないのだ、自分の歌は悪なのだ、罪なのだ。そんな罪の意識ばかりが増大していき。
やがては歌うことを止めた。
けれど、歌は自分の全てだった。
それを禁じることは身を切るよりも辛いことだった。
耐え切れず人に隠れてこっそりと口ずさむこともあった。
けれどいつだって口ずさんだ後は、自分はいけないことをしているのだという後悔に襲われるばかりで。
生きる目的さえも見失いそうで、希望など見出せなかった。
もう二度と自分が歌うことは許されないのだと思っていた。
なのに。
今、目の前にいる人は歌うことを許してくれた。
歌ってもいいと、自分が歌うことを罪ではないと言ってくれる人がいた。
それだけで、自分の存在を認めてもらえたような気がして。
信じがたい喜びと安堵に、は子供のように声を上げて泣き崩れた。
「わたし・・・ずっと、ずっと、歌いたかった・・・っ!」
その様子を見守りながらクルー達は徐々に表情を穏やかにしていく。
その小さな体に今までどれほどの不安を抱えていたのかと思うと誰もが胸の詰まる思いに駆られていた。
しかし疑問を残したクルーが訝しげに声を上げる。
「あれ?じゃあ船長なんでこの記事見て焦ってたんですか?」
クルーの言葉にヨーキが声を張り上げる。
「俺が問題だっつってたのはこっちだよ、コッチ!」
指で勢いよく指し示した場所には、小さくの年齢が書かれてあった。
「お前ェちんまいからてっきり俺ァまだケツの青いガキんちょだと思ってたのに、コレ見たら立派な年頃の娘じゃねェか!
どーすんだよお前ェ、ガキだと思ってたから俺ァ野郎共と雑魚寝させてたんだぞ!?
分かってりゃあちゃんと部屋用意してやったのによ。あのなァ、こういうことはもっと早く言え!分かったか!?」
思っても見ないような他愛ない内容で叱られて、は泣き顔をきょとんとさせた。
船員達は呆れて肩を竦めながら笑っている。
その中でブルックも、この船長なのだから心配する必要はなかったかと胸を撫で下ろしていた。
話がひと段落して、ヨーキが浮かれながら高らかに拳を振り上げる。
「よーし、宴だ宴!歌姫解禁をぱーっと祝うぞ!今日はにもガンッガン歌って貰うからな!野郎共支度だーッ!!」
がやがやと船員達が賑やかに甲板へ向かう中で、ヨーキがブルックの肩を叩いた。
スーツの肩に腕を乗せて顔を寄せ、内緒話でもするかのように声を潜めて興味津々に問う。
「で?どーだったんだよの歌声は?」
その言葉にブルックはすちゃっとサングラスを掛けなおし、意味深な笑みを浮かべた。
「ヨホホホホ・・・・・・度肝抜かれますよ?」
宴の準備がされた甲板ではその中央に立った。
認めてもらえたものの、まだ自分の中の恐怖が完全に拭われた訳ではない。
本当に大丈夫だろうか、歌っても良いのだろうかという不安が足を竦ませる。
けれどクルー達の見守るような笑顔に励まされ、ヨーキの力強い頷きに促されて
は意を決してすう、と息を吸い込んだ。
波間に揺れる船上で、クインテットの調べにソプラノの歌声が美しく絡み響き渡る。
緩やかで繊細な旋律はしんみりと聴く者の体に染み込んで。
徐々に曲は広がりをみせて波がうねるようにダイナミックになっていく。
それに導かれて歌声も感情を解放していくかのように迫力を増し。
際限なく膨らむ音に誰もが鳥肌を立てる。
今までどこにそんな情熱を隠していたのかと驚くほど、その歌声は歓喜も悲哀も慈しみも慟哭も全てを表現していた。
全ての感情を昇華した情熱的な音色は聴く者を圧倒する。
それは一度彼女の歌を耳にしたブルックでさえ例外ではなかった。
昨晩耳にした囁くような歌声とは一変してどこまでも広がる声量。
けれどそれでも決して失われない透明感は圧巻でとてつもない陶酔感に襲われていく。
そこには音楽を愛するものならば誰もが享受出来る幸福な奇跡が満ちていた。
誰もが息を呑み、忘我の境に入った。中には涙を流している者さえいる。
いつの間にか奏者達は楽器を弾くことを忘れ聞き入っており、気づけばアカペラになっていた。
やがて歌声は伸びやかに広がり、そして静かに結ばれる。
しん、と静まり返った甲板に波の音だけが響いた。
歌い終えたは久々に感じる高揚感に息を切らせた。
生きている実感をこんなにも強く感じられたのはいつぶりだろうか。感激と興奮が胸を満たす。
ようやく落ち着いてあたりを見回すと、船員達が未だ呆然とこちらを見ていることに気づいた。
途端、頬に朱をはしらせて、は慌ててぺこりとお辞儀をする。
それが合図のように船員達は我に返り、甲板はどっと盛り上がった。
誰も彼もが顔を上気させて、スタンディングオベーションの嵐が沸き起こる。
それに戸惑いと恥じらいを見せながらは身を縮めてはにかんだ。
「!」
突然ヨーキが大声を張り上げ、船員達の注目がそちらに集まる。
ヨーキは腰に手を当て仁王立ちになり、顔を嬉々とさせて高らかに言い放った。
「お前ルンバー海賊団に入らねェか!?」
予想外のセリフには言葉を失って立ち尽くす。
自分に歌うことを許してくれた場所。誰もが音楽を愛する船。
自分にとってこれ以上理想的な場所もないかもしれない。
けれど。
ここは海賊船。戦う術など持ち合わせていない自分が乗船しても足手まといになるのは目に見えている。
そもそも海賊というもの自体よく分かっていない。何をすれば良いのか、どうすればなれるのか。
他に行く宛てもない。自分に優しくしてくれたクルー達と一緒にいたい。ここに居たい。そう望むけれど・・・
そんなの気持ちを見透かすように、ヨーキが豪快に笑う。
「おれの船への乗船条件は音楽が好きな事!それだけだ!・・・音楽は好きか?」
ヨーキの言葉にじわじわとの顔が歪む。
自分には身に余る幸福に思えた。それでも、それを許してくれるというならば―――
は今にも零れそうな涙を目に湛えながらぐっと食いしばり、そして大きくはっきりと、頷いた。
固唾を呑んで見守っていた船員達はわっと歓喜の声をあげ、祝賀ムード一色となった甲板は飲めや歌えやの騒ぎとなった。
しゃくりあげるのもとにブルックが近づき、胸元から取り出したハンカチをそっと差し出した。
未だ呼吸の整わないままにはそれを受け取り涙を拭うと、恥ずかしそうにブルックを見上げる。
そうして涙に濡れた顔で花のように笑った。
それはこれまで見た中で一番晴れやかな表情だった。
暖かな気持ちになり、ブルックもに優しく微笑み返す。
こうしてこの日、ルンバー海賊団には新たな仲間が誕生した。
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